山谷ボランティア体験記③
再び、山谷地区でボランティアに参加してきました
先日、山谷で路上生活者や簡易宿泊所に入居されている方を対象とした方々へお菓子や衣服を提供させて頂くボランティアに参加させて頂きました。今回はこれで3回目の参加です。
今回はそこで経験して得た考えをまとめてみようと思います。今回の活動では、割と時間に余裕があったため、各利用者の方々と長くお話することができました。幸か不幸か個人情報が分かってしまうくらい深めのお話をお聞きすることができたので、会話の詳細については省いて考察部分のみ記事にしようと思います。
何気に山谷のことや生活保護の記事は閲覧回数が他に記事に比べて多いため、たくさんの人の目に触れているのだなぁと感じています。毎回、個人的な意見で賛否両論あるかと思いますが、いつも私の拙い文章を見ていただき感謝しています。
山谷への道中
今回もJR南千住の駅で下車し、山谷地区へ向かった。目的地までは徒歩で10分程だがここ数日気候が涼しく、道中快適に向かうことができた。思えば初めて山谷に行った季節は湿度高めの真夏だったため、道中滝のような汗を書きながら歩いたのを覚えている。
泪橋を超えると山谷地区だ。サドルが破れてビニール袋で補強された自転車、木造の長屋、歯のないオッチャンなど。仮に、何も知らない人が山谷に足を踏み入れたなら、ここは本当に日本の首都東京なのか?と思うかもしれないなぁ...とか考えつつ目的地に到着した。
ボランティアに参加しての様々な考察
- 路上生活者のニーズは何?
昔路上生活をされていた方からのお話より、路上生活中に困ったこととして入浴、食事、衣服の確保などが挙げられていた。人間が最低限生活するためにはこれらは必須である。路上生活中は資金に乏しく、基本的なものでも調達が難しいのだと改めて分かった。確かに今回のイベントに来ている利用者の多くが、衣服や入浴などのサービスを受けに来ていた。
今回のCOVIDー19の影響で、当面の生活を送ることができないために、生活保護を受けることになった路上生活者が少なからずいると聞く。この現実だけを客観的に考えると、やはりお金が必要なのか?と邪推してしまうが、お金以外の何か必要なものがあるのでないかとも感じた。
- 路上生活者が考える福祉(生活保護)についての考えと私の考察
生活保護を受けるかどうかは人それぞれ。中には生活保護を受けたい人もいるしそうでない人もいる。その中で、生活保護を受けたくない理由は様々である。事情は漠然と察することはできるが、その理由を深く追求することに意味は私はあまり感じなかった。
なぜなら、人間個々に尊厳や権利があるのであれば、生活保護を受けない権利もあるからである。私たちの暮らす日本において人間は自由なのだから、自分の責任で生活できる範疇においては好きに生きればよい。しかし、生活保護を受けていない路上生活者が、仮に生命の危険を目にしたときには一人の医療者として助けたいと私は思う。
- 人との繋がり
生活保護を受けて、路上生活を脱した方もボランティア活動などを通して何らかの社会とのつながりを持っていることも分かった。
彼らは行政や支援団体に頼まれて事業を手伝っているという。「頼まれたから、暇だから…」という言葉の中にはどのような意味があるのであろう。
私なりに考察すると、人は一人では生きていけないし、誰かと繋がっていたいと思う気持ちを誰しもが持っている(と私は信じている)。そんな気持ちがあるからこそ、彼らは様々な活動を通して社会とのつながりを持っているのではないかと考えた。
つながりを維持するという意味でも、支援団体が運営するイベントは多くの路上生活者にとっても社会とのつながりを実感できるソーシャルキャピタルになっているのである。しかし、COVIDー19のためにイベントの規模は小さくなり、利用者同士で会場内では親睦を深めることができないため、社会とのつながりを感じる時間や機会が少なくなっている。利用者にとっても潜在的に寂しさ、悲しさ、怒りがあるのかもしれない。
COVIDー19の早期の終息を願うとともに、これから冬を乗り越えることになる路上生活者の健康状態や生活を彼らの迷惑にならない程度に見守る必要がある。